Brian Lehrer Show "Talking Heads"*1
http://www.wnyc.org/shows/bl/episodes/2006/07/31
Tax-raising, latte-drinking, sushi-eating, volvo-driving, New York Times-reading, body-piercing, Hollywood-loving, left-wing freak show
少し前のBrian Lehrer Showで面白かったものです。アメリカでの英語の使い方が、政治的に色付けされていること。特に、最近の共和党の言葉の使い方に焦点を当てています。言語学者のジョフリー・ナンバーグ*1がゲストですが、彼の最近の著書、その表題がすごい。
Talking Heads
Geoffrey Nunberg, linguist and author Talking Right: How Conservatives Turned Liberalism into a Tax-Raising, Latte-Drinking, Sushi-Eating, Volvo-Driving, New York Times-Reading, Body-Piercing, Hollywood-Loving, Left-Wing Freak Show (Public Affairs 2006)
- on the politics of language
私が勝手に訳すると、
正しい共和党的話し方--リベラリズムを、増税狂い、ラッテ狂い、スシ狂い、ボルボ狂い、ニューヨーク・タイムズ狂い、ボディ・ピアス狂い、ハリウッド狂いの、サヨクのイカレた見せ物に、保守派はどうやってかえたのか
という感じです。この表題は、実は、前回の大統領予備選で民主党の空気を一瞬つかんだように見えたハーワード・ディーンについて、一組の夫婦が続けざまに言った言葉なのだそうです。そして、本当は、その後に、
Please send this left wing freak show back to Vermont where it belongs!
と、言ったそうです。
カフェラッテ色のリベラリスム
ここで要点は、『リベラリズム』は本来カフェラッテとは関係がないのに、連想ゲームのように『リベラリズム』はこういう一連のレッテルの色を付けられてしまっている。こういうのが、アメリカでの政治言語の使い方です。
ナンバーグは、他にも、『elite』という言葉の使い方を指摘していました。例えば、ブッシュ大統領は、あらゆる伝統的な言葉の定義によれば、エリートなのですが、今の言葉の使い方では、大統領ではなく大統領に質問をしているリポーターの方を指すのです。もちろん、この時のエリートという言葉には、
普通のアメリカ人<-->エリート(嫌悪感つき)
we the people
先に書いたwe the peopleで言えば、本来米国はイギリスからの独立が最初の主題で、
people <--> tyrant
という対比のpeopleでした。イギリス国王の横暴に抗議して独立するのは、独立宣言の大半が、いかにイギリス国王が悪いやつかの悪口で占められていることからも分かります。しかし、南北戦争の頃には、イギリス国王は海の彼方の実感のない物になり、この対立軸は失われて、peopleは『米国憲法=liberty and equality』を体現する物として定義し直されているのです。逆に言えば、こういうpeopleはこの時期に政治的に出現したといえます。今でも、このpeopleをAmericanと呼んでいます。
『国民』と『people』の違い
日本で『国民』概念が作られたとき*3には、明治維新文明開化富国強兵の時代でした。従って、国民が外国人と違うのは当たり前、逆に列強からの圧迫に反抗するのがもともとの『国民』で、最初から外発的な物です。日本の特殊な事情として、島国であり、誰が日本人で誰が外国人かも自明なことでした*4。
しかし、このpeopleは違う。米国には大量の移民があり、ありとあらゆる外国人がいるのが普通です。これは、米国の中の外国であるNYCでは顕著ですが、全米的にもラティーノの興隆による変化は避けられない。こうして変わっていくのがpeopleです。日本の『国民』が、明治維新、朝鮮併合、敗戦と対外関係を基軸に変わっていく*5のと対照的です。
*1:私は彼が異様にどもるのが気になりました。
*3:『歴史とは何か』
*4:そういう意味では、明治31年の漂流記
*5: