community

この、中佐殿が言った、日本語にしにくい『コミュニティ』は、アメリカ人の実感だと思うんです。つまり、自分のしていることの政治的基盤(=これも日本語にしにくい『アイデンティティ』)を『コミュニティ』の規模に置くのは自然なことだ、という考えです。


その基盤は、イラク人がいうような『家族』でもなく、よく出てくる『国家』でもなく、それを越えた『イスラム』でもない、自分の手の届く範囲の生活区域。『家族』じゃ傭兵になる以上の意味はなく、まだ存在しない『国家』への帰属を唱えても空しい。まだ『イラク』は何かすら固まっていないので。じゃ、『イスラム』なのか?それなら、アメリカと戦うことになってしまう。でも、誰でもコミュニティはあるんじゃないの?と中佐殿はいいたいわけです。


家族よりは大きく、国家よりは小さい、コミュニティ。アメリカの国柄では地方自治体が実際に力をもっています。警察も消防も、学校も、その自治体が第一義的に責任をもっていて、それでこぼれたところは州が、それでこぼれると連邦が行います。だから隣町は警察が違う。パトカーの色も違います。税金も税率も違う。法律もチョコチョコ違う。高速道路は自治体の管理ではなくなるので、州警察。道交法は州単位。州も軍隊をもっています。


そのコミュニティを自分で作るのはアタリマエじゃないのか?という非常にアメリカ人的には自然の言動だと思います。ただ、こういう政治的感情は、先天的ではなくて、政治的に教育されて初めてできることです。その意味では、今はイラクはまさにそういう過程にあるのだと思います。


この、中佐殿が言った、日本語にしにくい『コミュニティ』というのは、アメリカ人の実感だと思うんです。つまり、していることの基盤、つまり、これも日本語にしにくい『アイデンティティ』を『コミュニティ』の規模に置くのは自然なことだ、という考えです。


その基盤は、イラク人がいうような『家族』でもなく、よく出てくる『国家』でもなく、それを越えた『イスラム』でもない、自分の手の届く範囲の生活区域。家族よりは大きく、国家よりは小さい、コミュニティ。アメリカの国柄では例えば地方自治体が実際に力をもっています。警察も消防も、学校も、その自治体が第一義的に責任をもっていて、それでこぼれたところは州が、それでこぼれると連邦が行います。だから隣町は警察が違う。パトカーの色も違います。税金も税率も違う。法律も違う。高速道路は自治体の管理ではなくなるので、州警察。道交法は州単位。


そのコミュニティを自分で作るのはアタリマエじゃないのか?という非常にアメリカ人的には当然の言動だと思います。ただ、こういう政治的感情は、先天的ではなくて、政治的に教育されて初めてできることです。『政治的な教育』というのは、聞いている人に『そうだな』と納得させるような政治的寓話の原形を共有するということです。例えば、『democracy』という言葉を聞いただけで、ピンとくる、そういう話です。democracyなら、星条旗アメリカの独立、植民地の自己統治、と連想ゲームをするということです。ただ、今のイラクには大きな政治的物語りがない。そういう現状では、普通のアメリカ人との政治的接点はコミュニティまででしかありえない、とも言えると思います。