セシウムは甲状腺に集積して、甲状腺癌を引き起こすのか?

結論から書くと、ある程度は集積するかもしれないが、極端に集積する訳ではない。ただし、小児甲状腺癌は引き起こさない。

なんだか歯切れが悪い結論ですが、この甲状腺や、内分泌器官に集積すると主張しているのは、私の知っている限り、バンダジェフスキーの論文しかなく、この論文は首尾一貫したデータを出しているとは言い難いからです。私がそう考える理由を説明します。

バンダジェフスキーの論文

以前、汚染地域でのセシウム集積についての論文を読みましたが、近頃、セシウム甲状腺に集積するという話が出てきています。その元となっている論文は、
Chronic Cs-137 incorporation in children's organs
Y. I. Bandazhevsky
Swiss Med Wkly 133: 488, 2003
です。この論文をいつものように見てみましょう。この雑誌は、インパクトファクターが1ちょっとなので、マイナーな雑誌と言って良いでしょう。また、この内容で、単独著者というのも珍しい。この論文が書かれた特殊な事情は後で説明します。

この論文では、ベラルーシのゴメルで死亡した子供の遺体から標本をとってCs137を測ったと言っています。論文の発表は2003年ですが、データはその6年前の1997年のものです。

セシウムとカリウムは似た挙動を示す。

最初に、復習します。

周期律上セシウムカリウムと同じ仲間で、セシウムの体内の挙動はカリウムと似ていると考えられています。カリウムは細胞外液には乏しく、細胞内に貯留されるので、量としては体内の最大の実質臓器である筋肉がほとんどを占めることになりますが、全ての細胞に分布しています。カリウムは天然の同位体元素であるカリウム40があり、その同位体比率は0.012%で一定であり、カリウム全体としては32Bq/gとなります。また、前にも書きましたが、人の筋肉は平均して、100Bq/kgのカリウム40を含んでいます。従って、カリウムは筋肉中の0.3%(3g/kg)程度になります。カリウムの一日摂取量は、2-3g程で、その9割は尿に、その他は便などに排泄されます。従って、人間の体は60−100Bq/日程度の放射性カリウムが通過していることになります。また、カリウム40とセシウム137は崩壊課程も似ています。従って、セシウム137の効果はカリウム40を基準に考えるのが良いと私は考えます。

1997年に行った10歳以下の6例の子供の検屍の結果は、心臓、甲状腺、副腎、膵臓に非常に高いセシウム137の集積を示す物がある。


これが、表1に示されているものです。人の筋肉のカリウム40が100Bq/kgであることを基準に考えると、非常に高い値であることが分かります。ただ、この表1のデータは、次に説明する図1と一致していないし、(図1では甲状腺の平均は1200Bq/kg、この表1では、2863±2399Bq/kg)、表2とも一致していません(表2では甲状腺は2054±288Bq/kg)。

よく見ると、個人間の差が著しい事が分かります。特に膵臓の個人差は激しく、膵臓の値の標準偏差を計算するだけで、この表1のデータは後に出てくる表2の52人のデータの一部ではない事が分かります(表2のデータでは、平均1359、標準偏差が350となっている。もし、この表1のデータが表2のデータの一部であれば、標準偏差は表1の4つの値だけで
√(1/51)*[(11000-1359)^2+(12500-1359)^2+(1329-1359)^2+(2941-1359)^2)]=2074.94になり、全体ではこれ以上でなければならないが、これですらすでに350を越えている。)この6例のデータをどうして全体を纏めた表2のデータと分けてだすのか、私には理解できませんし、その理由は説明されていません。なぜ理解できないかと言えば、この6例のデータは、膵臓の値が表2の52人のデータとかけ離れていることから、全体を代表するような例ではなく、ある特異なグループを選んでいると言っているのに等しいからです。


幸い個々では個別の計測値が載っているので、検算してみます。

この6例の子供の場合、標準偏差が大きい事もあって、心筋と比較して測定されたBq/kgが有意に差があるのは、肝臓が有意に低いというだけです。これだけでは、心筋と比較して内分泌器官に集積していると結論できません。

この個人差が内部被曝の程度が個々人によって大きな差があることが理由であると考えて、内部被曝の程度を心筋で代表できるとします。教科書的には骨格筋なのですが、この表1には骨格筋のデータがありません。そこで、心筋と比べて、どの程度蓄積されるかを比をとってみます。これが個別の全ての比の値です。

平均と標準偏差をとって、心筋の値とt検定を行うと、心筋より低くて有意なのは、肝臓と腎臓、高い方は膵臓で、甲状腺を含め、他の臓器は有意差はありません。だから、どうしてこういう形でデータを切り分けるのか私には分かりません。

1997年のゴメル地域での検屍でのセシウム137は各臓器において小児の方が多い。


ゴメルはベラルーシで、チェルノブイリ事故でのセシウム汚染が最も高い地域です。図1に示されているように、調べられた全ての臓器で、セシウム137は小児の方が多い。この事自体は、子供の内部被曝の危険性が高いということを示唆しています。

ただし、この図に使われたデータは、平均を示しているだけで、大人と子供をどう定義したのか、何例測ったのか、標準偏差はどうだったのか、何も示されていません。従って、これだけで有意であるとは結論できません。

ちなみに、標準偏差を書いていないグラフを認めるのは、私は普通ではないと思います。だいたい、平均の棒グラフを書いて、16個中7つの値が丁度100で割り切れるなんて、データを100単位で四捨五入でもしない限り、ありえませんね。これだけで、私の場合、頭の中で火災報知器が鳴っているような気になってしまいます。

また、先にも述べたように、この最も高い甲状腺の値、1200Bq/kgは、この論文に載っている表1にも表2にも一致しません。ということは、別のデータ集団としか考えられませんが、測った検体がどう同じなのか、違うのか、そのことについては何も述べられていません。

1997年のゴメル地域での52人の10歳までの子供の検屍で測定した各臓器のセシウム137は甲状腺、副腎、膵臓に多い。


これは表2に載っているものです。この表の説明には52人と書いてありますが、本文中は51人と書いてあるのは、ご愛嬌です。

13臓器の測定の平均と標準偏差を載せていますが、この13臓器は表1のものと違って、骨格筋が入っていて、胃が抜けています。この表では、標準偏差は表1の時程大きくはなく、甲状腺にある程度集積しているようにみえます。ただし、その場合でも骨格筋の2倍程度です。

以上が論文のデータです。

著者は、要旨で『セシウム137は内分泌器官、特に甲状腺、副腎、膵臓で最も高い蓄積を示した。*1』と述べています。甲状腺と副腎は確かに内分泌器官ですが、膵臓での蓄積が外分泌腺か内分泌腺かを示していないので、内分泌器官一般にセシウムが集積するとは言えません。切片を切ってオートラジオグラフィをとれば分かる筈です。また、論文の結論として『経済的理由で、毎年行っていたサナトリウムに子供が住む期間が短くなり、汚染地域は「汚染なし」と分類され、汚染されていない無料の食物の供給が停止された。*2』と書いていますが、もちろんそんなことはこのデータからは言えません。著者がこういう論文を、データと関係のない社会的なスローガンを発表する手段と考えているとすれば、私が論文だと思っているものとは大分違います。

*1:The highest accumulation of Cs-137 was found in the endocrine glands, in particular the thyroid, the adrenals and the pancreas.

*2:For reasons of economy the annual sanatorium stay has been shortened, and communities in some contaminated areas have been classified as “clean”, thus ending the supply of clean food from the state.

この論文には三つのデータの整合性がない。

この論文の出しているデータとして、それぞれなりにセシウム137の蓄積は見られるものの、二つの表と一つのグラフに載っているデータは同じ物ではなく、平均ですら大きく異なります。私が査読をしているのなら、この段階で、実際の個々のデータを要求して、自分で検算します。
また、『セシウム137を測っている』なら、同時にセシウム134とカリウム40が測れる筈です。従って、私なら、セシウム134とカリウム40のデータを要求します。なぜカリウム40が大事かというと、以前に読んだオーストリアでの実測例をみれば分かるように、カリウム40の値はだいたい100Bq/kgでセシウム汚染などに関わらず一定だからです。逆にこれが一定であれば、測定している値が現実と合っているという証明になります。セシウム134は半減期2年なので(オーストリアの例では実質半減期はもっと短い)、事故後11年経っているこの時点ではずっと減っているはずだと予測できます。また、この論文では測定自体はフランスでも行った*1と言っているので、そちらからでもデータは出せる筈です。以上まとめると、『こういう報告がある』としか言えません。

*1:ただし、フランスのどことは書いていない

ユーリ•バンダジェフスキーとはどういう人か。

英語のWikipediaによれば、もっとも有名なのは、チェルノブイリの実験の結果を発表したとして、ベラルーシの当局に逮捕され投獄された、と言われていることです。当局の主張では、学生の親から賄賂を受け取ったという罪で投獄したことになっています。2001年に8年の禁固刑を受け、2005年に仮出所しています。アムネスティ•インターナショナルなどは、良心の囚人としています。

今中さんのところにも、2000年頃の手紙があります。手紙の中で『英語の論文を用意しているところだ』というのが、表題からしてこの論文だと思います。

ベラルーシでは、ソ連崩壊後もルカシェンコ大統領がソビエト式の独裁体制を続けているので、うるさい学者を投獄するのはありえます。バンダジェフスキーは、大統領令21号『テロリズムと戦うための緊急措置』で逮捕されています。それでいながら起訴が学生から賄賂をもらったという、テロリズムと関係のない容疑で、しかも軍事法廷で裁かれているので、状況は真っ黒と言えます。

上に述べたようにこの論文には色々な欠点があり、また、『当局に都合の悪い事実』は『科学的な事実』を証明する訳ではありません。この事は日本でも同じです。ただ、ここまで異常な状況の中で、獄中から論文を出すだけでもバンダジェフスキーは偉いと、そこは認めるべきだと私は思います。ただ、ちゃんとした論文を書いていないことは残念なことです。

以上が、セシウム137は甲状腺にも若干蓄積する可能性はあるが、飛び抜けて多いわけではない、という論文でした。

このセシウム137は小児甲状腺癌を引き起こさない。

セシウム137が甲状腺に集積するかの方の歯切れは悪いのですが、セシウム137が小児甲状腺癌を引き起こさない、こちらは明白です。
Cancer consequences of the Chernobyl accident: 20 years on
J Radiol Prot 26: 127, 2006
によると、小児甲状腺癌は、ベラルーシでの小児甲状腺癌(14歳以下)は事故4年後から顕著に増加し、事故後9年後の1995年にピークを迎えた後、事故16年後の2002年には事故以前の状態に戻っています。

これは、持続的な被曝ではなく、事故直後の短い時期に(おそらく半減期8日のヨウ素131で)被曝したことを意味し、半減期30年のセシウム137がたとえ甲状腺にいくらか蓄積されていったとしても、そのことで小児甲状腺癌は増えていません。言い換えれば、福島で今から生まれてくる子供は、セシウムによる被曝があっても放射能による甲状腺癌になりません。*1

また、この被曝による甲状腺癌の増加は被曝時年齢にはっきりと依存し、明らかに15歳以下のリスクが高い。そして、成人での甲状腺癌の顕著な増加は認められていません。以上が、セシウム甲状腺に若干蓄積するとしても、甲状腺癌を引き起こさないという話でした。

*1:このチェルノブイリでの小児甲状腺癌はベラルーシで4000人の発症で死亡が20人程度と、死亡率は低い。また、少しずれますが、小児甲状腺癌が減少したことをもって、検査バイアスがないことの証明にはならない、というのが私の意見です。